東京に行った際、佃煮で有名な佃島を訪れた。ネットで調べていくとなんと佃島の人々(漁業の専門家集団)のルーツが大阪にあることを知った。しかも佃島の人たちが祀っている佃島住吉神社は、移住に際し大阪の佃(旧名:田蓑)にある田蓑神社から分詞されたものであるらしい。佃の漁民は豊臣と徳川の対立の中で家康の側にたち、その貢献により江戸に招かれたと言うことらしい。太閤さん贔屓の多い大阪ではめずらしいことです。 でも江戸の招かれた本当の理由はそれだけでは無いような気がします。大阪の佃に住んでいた人たちは「河口の中洲」という都市の重要なウォーターフロントではあるが、開発の難しい土地で生活する術を持った人たちでした。つまり江戸の開発には不可欠な職能集団だったのではないでしょうか?家康は彼らの力を必要としていたのです。でも江戸に向かった33名の人たちは希望や不安でいっぱいだったのでしょう! そこで僕たちは東京の佃島に続き、大阪の佃を訪れることにした。どちらも川の中州で、江戸初期であれば海に近いところだったのでしょう。今は古い民家の中に町工場や高層マンションが林立している状況までがよく似ています。今でも親戚とか残っているのでしょうか?大阪も東京もその地形から、佃のあたりは島、江、洲、淀などの字が付く地名が多いです。
|