ちょっと違う江戸文化めぐり
東京の超有名ポイントを外した江戸の香りを探す旅です。

旧吉原遊郭界隈

 江戸を代表する遊郭です。もちろん現代のモラルからいうと人身売買や売春など許せるものではありませんが、この時代には一つの文化であったと考えてもいいでしょう。お芝居や落語の世界など吉原なしには成り立ちません。ところで現代の遊郭といえば大阪の「飛田新地」の強烈な印象が忘れられません。
吉原大門(おおもん)

吉原歓楽街への正面玄関。治安を目的とするほか、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされた。現在は交差点の名前で残っている。実際にはこの写真で手前の方に入ると吉原の跡地になります。

大阪の飛田大門はこちら

見返り柳

遊び帰りの客が後ろ髪を惹かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで振り返ったことからこの名があるそうです。

馬道と馬肉屋と桜肉鍋屋

浅草寺の北東部に位置し、浅草から旧吉原土手(山谷掘)に向う道がいわゆる「浅草馬道」です。浅草馬道の由来は、古く江戸時代から遊客が馬を利用して吉原へ通う道筋であったことから起ったいわれています。行きはかっこよく馬に乗って行くのですが、帰りはお金を使い果たし、馬を売って帰ったのが馬肉屋や桜鍋屋の起源なのかもしれないですね。 

 今も、吉原大門の一画には馬肉屋さんがある。馬肉の刺身や馬の油が売っている。馬の油は整髪料に使うのだろうか?


馬道の道路標示
 
真中が桜肉鍋屋さんです。建物が登録有形文化財に指定されています。右の天麩羅屋さんはお昼前に長い行列ができていますした。
  

投込寺 浄閑寺

吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」の名があります。南千住から歩いて行きましたが、大阪釜ヶ崎の簡易宿泊所のような安いホテルが多いです。東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅の近くにあり、山谷・吉原は近くになります。三田完の短編集「黄金街」の中の「ファインプレイ」という小説の中で、主人公が吉原ソープ街に向かう時の最寄りの駅として三ノ輪が記述されています。投込寺は昔の遊郭につきものです。昔の遊郭を美化することがありますが、基本は人身売買の上に成り立った制度であったことを忘れてはいけないと思います。

写真左下は境内にある吉原の遊女の供養塔です。この向かいに永井荷風の詩碑もあります。。
  三ノ輪の野良さん。
痩せ猫さんです。
頑張って生きろよ!

 

山谷掘跡

左下の写真は紙洗橋の橋の跡です。緑のところが山谷掘だったのですが埋め立てられたのか、暗渠にされたのです。ところで紙洗い橋の名のごとくこの界隈には紙すき屋さんがあったそうです。熱く溶かした紙が冷めるまでの時間に吉原にちょっと遊びに行くのが「ひやかす」という言葉の始まりだそうです。
このあたりは吉原に向かう土手(堤)になっていたようです。そこにあったお店は店名に「土手」を付けたようです。右下の土手大嶋屋さんも昔から吉原に向かう土手の上にあり、遊びに行く人の提灯(今でいう懐中電灯)を作っていたようです。

 紙洗橋の跡
土手大嶋屋
 

品川宿と鈴ヶ森刑場跡

 品川宿の本陣跡

品川宿で会った猫さん

鈴ヶ森刑場跡

1651年に開設されたお仕置場。小塚原刑場とともに江戸刑制史上重要な遺跡です。東海道に面している。ここで処刑された有名人は、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など。江戸の芝居には欠かせない人材ばかりです。

 

南千住の小塚原刑場跡
 江戸の刑場は東海道に面した品川の「鈴ヶ森」と奥州街道(日光街道・水戸街道)に面した千住の「小塚原」の二つがありました。ここでは20万人以上の罪人の刑が執行されたそうです。小塚原回向院はこの刑場での刑死者を弔うため、刑場の隣接地に建てられました。ここには吉田松陰、橋本左内、鼠小僧、高橋お伝などのお墓があります。ただし吉田松陰はその後、世田谷の松陰神社に改葬されているそうです。

 小塚原回向院には「蘭学を生んだ解体の記念に」という石碑があります。1771年に杉田玄白・前野良沢がここで罪人の腑分(解剖)をしました。その経験をもとに「解体新書」を著したそうです。

 延命寺は回向院から分離されたお寺です。本来の刑場はこのあたりにあったようです。寺内にある「首切地蔵」は優しいお顔をなさったお地蔵さんです。刑死者の菩提を弔うために造立されたそうです。27個の花崗岩を組み合わせて作られているそうでその名のとおり、まるで切り刻まれたように見えます。奥州街道を往来する人々がこの名前をつけていったそうです。
小塚原回向院内にある吉田松陰のお墓にお参りしました。
延命寺の首切地蔵さん
 

伝馬町牢屋敷跡

 伝馬町牢屋敷跡は日本橋小伝馬町の十思公園周辺に当たります。その名のとおり江戸時代に牢屋敷がありました。周りには受刑者を弔う寺院もあります。吉田松陰はこの地で処刑されました。「松陰先生終焉の地」の石碑があります(写真右下)。
 公園の中には江戸の時の鐘で最も古い日本橋の「石町時の鐘」が移築されています。伝馬町で処刑が行われる時にこの鐘の音が合図になったそうです。
   

神楽坂

 細い石畳の裏通りに入ると、古い旅館や料亭、芸事の教習所などがあり、京の祇園に通じるしっとりした雰囲気がある。三味線の音が聞こえてきそうです。
     神楽坂で出会った猫さん


雑司ケ谷霊園
1874年に当時の東京府が開設した公共の霊園だそうです。「谷」という名がつきますが、歩いて行くと少し小高い丘の上にあるような感じがします。たくさんの有名人が静かに眠っています。夏目漱石のお墓にお参りしました(写真、中央)。
僕の気のせいでしょうか、それとも土地柄でしょうか、青山墓地のような明るい公園的な雰囲気ではなく、墓地らしい、何かもっとしっとりとした雰囲気が漂っています。
     霊園にお参りに来ていた猫さん

新宿ゴールデン街
昼間のゴールデン街を訪問しました。夜は怖くてちょっと来れません。このあたりは昔、青線地帯だったそうです。この機会にと「黄金街」という三田完の小説を読みました。この中で出てくるフォーククルセイダーズの「悲しくてやりきれない」をむしょうに聴きたくなりました。
ゴールデン街にいた猫さん

太宰治と三鷹
太宰治と三島由紀夫は高校生の時にかなり必死になって読みました。今回、お墓詣りに行くという事で、「人間失格」と「斜陽」を再読して出かけました。この年になって太宰を読むのはちょっと辛くなっています。それは年を取って僕の神経だ鈍麻してきたせいかもしれません。でもよく言えば心が安定してきたためだともいえます。訪問した日、三鷹は大雨洪水警報のさ中でした。
太宰治のお墓
太宰のお墓にはたくさんのお花が手向けてありました。拝礼

森鴎外のお墓
やはり拝礼。森鴎外の津和野の生家はこちらです

太宰治文学サロン
珍しい資料や写真を拝見できました。
とても親切な対応をしてくださいました。どうもありがとうございます。

 
玉川上水の入水自殺現場あたりです。太宰の故郷、青森県北津軽郡金木町産の玉鹿石の石碑です。太宰は1948年(僕が生まれた年)、39歳の若さで自ら人生を終えています。

 
井心亭のお庭にある太宰治ゆかりの「さるすべり」の木。太宰の家はこの向かいあたりにあったそうです。太宰著「おさん」にこのさるすべりの記述があるそうです。

 
山本有三記念館
玄関に「路傍の石」がある。でも路傍の石の本来の意味からすると少し立派すぎるかな?

 

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