高槻と枚方と守口宿

     高槻と枚方は京都と大阪の中間点です。二つの大都市をつないで、高槻には阪急電車・JR・西国街道が通っており、枚方には国道一号(京街道・大坂街道)と京阪電車が通っています。しかし両市を縦に結ぶ公共交通機関はバスしかなく、大河淀川(枚方大橋)を挟んでいるため、隣り合った市としては比較的人的・物的交流が少ないように思います。守口は大阪にいたる街道の最後の宿場町でした。今は大都会・大阪に飲み込まれてしまいそうですが、古い町並みも残っています。


高槻
しろあと歴史館

高槻の歴史が学べます。無料です。
歴史民俗資料館

高槻城跡にあります。江戸時代の商家を移築したものです。
カトリック高槻教会

天正元年年間に高山右近が高槻城入城。右近が支配した時期には高槻に20以上の教会があり、領民2万5千人の8割がキリシタンだった。禁教後、右近はマニラに逃れそこの聖堂をまねて立てられた。
野見神社

城内にあります。
大阪医科大学歴史資料館

ヴォーリズの建築です。



枚方
    京都・大阪を結ぶ街道(京街道・大坂街道)にある宿場町でした。東海道に京都から大坂までの四宿(伏見・淀・枚方・守口)を加えて、東海道五十七次とする説もあります。また街道が淀川縁にあり、淀川を上り下りする三十石船の寄港地として栄えました。

鍵屋資料館




三十石船の船宿として栄えた。このすぐ裏が淀川の土手になります。

枚方宿本陣跡

現在は空き地になっている。

街道筋の町並み

古い町並みが残っている。

問屋役人屋敷跡



守口宿
     守口は京都と大阪を結ぶ京街道(大坂街道)の宿場町でした。太閤さんが築いた文禄堤の両側は商店や旅籠が建ち並び、大変賑わったそうです。守口から大阪の旭区にかけては学生時代に暮らしていた所で、僕にとってはとても懐かしい場所です。文禄堤はそのころから知っていましたが、今回改めて歩くと新しい発見が沢山ありました。と言うわけでこれは今回は2010年8月の14日のとても暑い日に、家内と一緒に歩いた記録です。

文禄堤 その1

不思議な絵です。ビルの手前に車が通る陸橋があります。これは堤を突き抜けて道路を造ったためなのです。

文禄堤 その2

堤の上に上がると、写真の左側のように両側は急な下り坂になっています。人工的に作った土手とその上の道なのです。
文禄堤 その3




堤の上の道です。橋がありますが、下はもちろん川ではありません。下には新しい道路が通っています。太閤さんは大坂と京を結ぶ街道が、淀川の氾濫で人の交流や物流が妨げられないようにするため、堤を造りその上を京街道としたのです。この街道沿いに本陣や一般の旅籠、商店などが建ち並び守口宿として繁栄したのです。

文禄堤 その4

古い町並みも良く残っています。

道しるべ その1

右「なら・のざき みち」と書いてある道標です。野崎観音や奈良方面へ向かう街道の分岐点にあたるのでしょう。落語「野崎参り」は有名です。

道しるべ その2


難宗寺の傍らにある道標です。「右 大」「左 京」と書いてあります。右手に向かうと大阪、左手に向かうと京都です。

難宗寺

蓮如上人が建立したという歴史のある浄土真宗のお寺です。左に写っている銀杏の木は大阪府の天然記念物(樹齢500年)です。

盛泉寺

東本願寺の末寺だそうです。大阪平野には真宗系のお寺が多いような気がします。石山本願寺を始まりとして、一向一揆や寺内町の形成など民衆の心を捉えたのでしょうか?
江戸川乱歩旧居



江戸川乱歩は大正9年、27歳の時から大正15年まで、守口や門真に居住していたそうです。明智小五郎が初めて登場する「D坂の殺人事件」はこの二階で書かれたものだそうです。

「D坂殺人事件」のモデルになった「団子坂」近くにある「コーヒー乱歩」はこちら

一里塚

京街道の一里塚です。