大 正 区 を 歩 く 


大正ガイドマップ
   平成25年11月3日に訪問しました。左の写真は大正区が出しているパンフレットです。散歩にあたっては、「大阪あそ歩」の「まち歩きマップ」が大変役に立ちました。

 大正区は木津川と尻無川と大阪湾に囲まれたデルタ(三角州)地帯です。歩いていると川に出合います。ちょうど 上田正樹の「悲しい色やね」の一節がぴったりの町です。「Hold me tight、大阪ベイブルース、河はいくつもこの街流れ、恋や夢のかけら、みんな海に流してく♪」

 大正区は姫島(古い名)に漁民3名が移住したのが始まりとされているそうです(三軒家の地名の由来)。その後、豊臣時代から江戸初期にかけて中村勘助の指導による新田開発が始まり、姫島は勘助島や難波島と呼ばれるようになりました。難波島は木津川口を塞ぐように位置していたため、1699年(元禄12年)には河村瑞賢によって島の中央部を開削直線化する工事が行われました。以降、同じく瑞賢により安治川の開削が行われ、木津川は海運・流通の拠点になりました。

 大正区は川や海に囲まれているため渡船場もたくさんあります。渡船は大阪市がやっているようですが渡船料は無料だそうです。たぶん道路の続きという考えでしょうね。同じことはニューヨークのスタテン島へのフェリーが無料であることと共通します。

 大正区に行ってみたいと思った理由は、 @沖縄出身の方が多く住みつかれたというお話に興味があったことと(区民の1/4が沖縄出身という話もある)、A直前にABC(朝日放送)の「せのぶら」で妹尾和夫が大正区出身という事で、大正区の町を歩いておられたのに興味を惹かれた事、によります。散歩の途中で小雨には見舞われましたが、楽しい一日でした。沖縄訛りで親切に道を教えてくださった方々、帰りになかなか来ないタクシーに乗るときに順番を譲ってくださったおじさん、その他大正区の皆様、ありがとうございました。おかげさまでとても楽しいたびになりました。僕たちはちょっと大正区ファンになりました。残念ながら妹尾さんお勧めの「大正ウォーカー」は手に入らなかったけど。

環状線大正駅

今回の旅の始まりです。
随分前、イチローがいたころ大正駅から大阪ドームに行きました。当時は地下鉄はなく環状線だけが大阪ドームへの鉄道アクセスでした。正面の大きな道路が大正区を貫くメイン通り大正通りです。昔は路面電車が通っていたそうです。


大正橋

大正4年(1915)に架橋。当時は日本最長のアーチ橋でした。その後、昭和49年(1974)に新橋が完成。下流側の高欄にベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされ、歩道がピアノの鍵盤になっています。
大正区が設けられる時に区名を募集し「大正橋区」と言う意見が多かったので大正区になったそうです。

安政津波遭難者供養碑


安政元年(1854)11月4日・5日に発生した地震と、それに伴う津波によって犠牲となった人々の慰霊と、後世への戒めを語り継ぐことを目的として建てられた。大正駅近くの千日前通りの大正橋東詰にある。大阪ドームも近くにあり、大正橋の上からの眺望はとても良いです。

「大阪、いろいろ・・名所めぐり」に詳細な記事があります。


木津河口遠見番所跡


当地はかつて姫島と呼ばれていました。中村勘助が、1610年に豊臣家のために軍船係船所や船着場の整備等を行い、その功により勘助島と名付けられました。その後、1708年に幕府が木津川口遠見番所を当地に設けると諸国の船で賑わって木津川は大坂経済を支える大動脈となり、朝鮮通信使の船なども出入りしました

 

木津川橋梁


木津川橋梁は昭和3年に大阪臨港貨物線の木津川に架設された。昭和36年に大阪環状線の橋梁として利用されるようになり現在に至っている。環状線の電車と比べるとこの鉄橋が異常なと言っていいほど高いのがわかります。構造上の強度が高いことをうかがわせるたくましい外観です。
こちらのサイトに詳しい説明があります。



 

勘助島の渡し碑


大浪橋のたもとにあります。正面に「わたし 勘助島」。右面に「すくちかみち なんば 今宮天王寺 住吉 あミ田池 道頓堀」といった地名が刻まれているそうですが、相当削れています。かつての渡し船の場所で、勘助島と難波島を繋いでいました。

 

上八坂神社と中村勘助の碑


下之宮の八阪神社と区別して上の宮、上のやさかさんと呼ばれます。中村勘助が建立に尽力したそうです。中村勘助は天正14年(1586)相模で生まれで土木技術者。慶長1 5年(1610)に木津村に移住。私財を投じて堤防を築き、新田を拓いた功績で勘助島と名づけられました。さらに木津川開削にも係り、大阪の海運の基礎を築きました。寛永18年(1641)の大飢饉では農民と一緒に蔵破りを決行。自らの命をなげうって人々を救いました。一時は死罪が決まりましたが、庶民の助命嘆願が絶えず勘助島に島流しになりました。勘助島は流島だったのです。
神社の方が紙きり細工をなさっておられました。
 
百済橋跡

百済橋は難波島西の三軒家川にあったものですが、川の一部が埋め立てられたさいに廃橋になりました。かつてこのあたりは難波島と呼ばれ、江戸初期より造船業が盛んだったようです。


 

近代紡績工業発祥の地碑


明治16年(1883)、渋沢栄一らが出資した大阪紡績会社が三軒家村で操業を開始しました。我が国初の近代紡績工業でした。その後、この地を中心に数多くの紡績工場ができ、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれました。
 

三軒家公園


桜並木があります。春はきれいでしょうね。大正区には大きな公園が多いのです。
 

木津川水門(右)と三軒家川水門(左)


社員右側にあるアーチ型水門が木津川水門です。昭和45年(1970)に完成しています。台風などで押し寄せてくる大阪湾からの高潮をせき止める働きを持っています。一般的な水門では通行不可の大きい船舶を通すためにこの様なアーチ型をしています。左の木津川水門は通常の上下開閉式です。
この水門が閉まる様子はYou Tubeにアップロードされています。

 

落合上渡船場


大阪市営だそうです。木津川下流にはさらに落合下渡船場があります。僕たちは雨の上、時間がなかったので残念がら渡し船には乗っていません。お客さんもひとりだけ待っておられるだけでした。僕はこの風景がなぜかとても気に入りました。このサイトの冒頭の「河はいくつもこの街流れ♪」ですね!
 
 

下八阪神社

上八坂神社とは坂→阪の字が違います。下の宮です。寛永2年(1625)に、三軒家地域の開拓者らが建立しました。


千島公園


このあたりは海抜0メートル地帯と言う感じがあるが、人口とはいえこんな立派な山があると自然が身近に感じて嬉しい。深い緑に包まれています。

この公園の中に大阪市内で二番目に高い山「昭和山」があります。地下鉄工事の残土などを使って造られた人口の山です。ちなみに市内で一番高い山は、鶴見緑地内に鶴見新山だそうで、こちらも人口の山です。

化粧地蔵


化粧を施された大阪市内でも珍しいお地蔵さんだそうです。残念ながらおうちの中におられお顔を拝見することはできませんでした。一体の銘には寛保2年(1742)とあるそうで、そうだとすれば260年以上の長きに亘って地域を守り続けたお地蔵さんです。


小林公園

ここも大きな公園です。野球場などスポーツ施設があるようです。


 
平尾公園

江戸時代、平尾与左衛門が新田開発(平尾新田)を行い、平尾の地名が残ったそうです。

平尾商店街(サンクス平尾)

沖縄物産店が見られる商店街として有名です。店先には沖縄の伝説の獣シーサーがいたり、沖縄の食材が置いてあったりします。歩いていると沖縄そば(ソーキそば)の店や、沖縄民謡の教室など沖縄の雰囲気が楽しめます。リトル沖縄ですね。また連続テレビ小説「純と愛」のロケ地となりました。大正の工場地帯は「ブラック・レイン」のロケ地になりました。

道がわからなくて何人かの人に尋ねたが、みなさんとても親切な方ばっかりだった。ちょっと沖縄訛りが聞こえてとてもうれしかった。日曜日に行ったためか、シャッターの降りている店が多かった。

 
菓子工房チェンバロ

ゆっくりお茶をさせていただきました。素敵なケーキ屋さんでした。帰り道も親切に教えてくださいました。どうもありがとうございました。



 
大正区で出会った猫さんたち

沢山、猫さんに会えました。みんな元気でね!

 
大正区をさらに下って
 僕たちはいけなかったけど、さらに海の方へ下っていくと大阪俘虜収容所跡や木津川飛行場跡があります。

大阪俘虜収容所跡
第一次世界大戦の結果、大正3年(1914)にドイツ兵捕虜の収容所がこの地に設置されました。施設内では捕虜は大切にされ、スポーツや趣味を楽しんだと言われています。兵士の楽団がベートーベンを演奏したと伝えられているそうです。今でも日本とドイツの関係者の交流が持たれているそうです。俘虜収容所の碑が亥開(いびらき)公園にあるそうです。
木津川飛行場跡
大正12年(1923)に「大阪木津川尻飛行場」が開設されました。昭和4年(1929)に「大阪飛行場」として日本初の公共用飛行場となりました。名古屋、東京、福岡、大連、上海へ、年間発着回数8800回、年間旅客1万人が記録されました。
 

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