大阪、いろいろ・・ 名所巡り

目次

飛田新地

平野

昭和町・阪南町

USJ

通天閣と新世界

阪堺電車で住吉大社へ

そのほか、いろいろ・・ 名所巡り

天保山

大塩平八郎を訪ねて

毛馬閘門と蕪村生誕地

曽根崎心中

安治川川底隧道

大地震両川口津浪記石碑







飛田新地
あいりん地区のすぐ近くで、大阪を代表する遊廓の跡地。明治45年の大火の後、難波新地など市内に散在する遊廓を松島新地と飛田新地に移した。昭和33年に遊廓は廃止となる。訪問される場合は、決して安全な場所とは言えないので充分注意して下さい。写真は撮らない方がよいでしょう。
動物園前一番街というアーケード商店街を歩いていると、脳卒中で麻痺のある方に出会う頻度が異常に高いのに驚かされます。栄養状態や生活習慣が影響しているのでしょう。
飛田新地の遊廓建築がそのまま残されている。豪華絢爛な安普請とも言われる。登録有形文化財に登録されている。周りにはお店が沢山ある。間口2間くらいで年増の女性と若い化粧をした女性が一組で座している。平成の時代にまだこういう文化が残されているのに驚く。遊廓への入り口になる門。傍らに碑が残っている。両サイドの門柱の横に少しだけ残っていますが、町は「嘆きの壁」という高い塀に囲まれていました。夫婦善哉で柳吉と蝶子の二人が大門前通りに関東煮屋をだしています。
吉原大門はこちら!



平野郷
戦国時代末期に富田林寺内町奈良県今井町と並んで環濠に囲まれた独立自治の村落だった。寺内町というより、商人の町として栄えたらしい。

夏の暑い日に行った。後ろが平野環濠跡。

町にはお地蔵さんが多い。

杭全(くまた)神社、平野郷の氏神様です。杭全もそうですが、大阪の地名は読みにくいものが沢山あります。

商店街には古い新聞屋さんがありました。

平野にあるおうちの玄関に貼ってあった犬の鑑札。昭和62年に始まり平成13年で終わっている。僕たちがここを通ったのは平成16年。ということは、このおうちで大切にされた犬の記録なのだ。思わずこのおうちの方と愛犬の関係に思いが及び、感慨に打たれる。



昭和町・阪南町
 昭和初期に住宅して開発された。道路はきちんと区画整理され沢山の長屋が残っている。写真下の「寺西家阿倍野長屋」や「左野家住宅」は文化財にも指定されている。長屋と言っても落語の舞台になるような貧相なものではなく、共有のくみ取り路地なども造られ、合理的な生活空間が供給されていた。現在のマンションにも負けない立派なものだったようです。
日本キリスト教団南大阪教会と附属幼稚園


昭和3年に村野藤吾によって設計されたもの。左の写真は鐘楼ですが、十字架と○を組み合わせた装飾と、空に向かって直線的に伸びていく、今見ても斬新なデザインです。米子市公会堂も村野のデザインです。
右は附属幼稚園です。童謡の「さっちゃん」は作者の阪田寛夫はここの卒園で一級上にさっちゃんがいたそうです。

寺西家阿倍野長屋(国指定登録有形文化財)
四軒長屋が素敵なレストランになっている。

左野家住宅(国指定登録有形文化財)
民家を使ったグループホームとして活用されている。



USJ




ウーン、どうやら悩み事があるようです。

ウェストサイド物語のマリアになってしまいました。でも本人に尋ねてみたら、自分はシャーク団になっているのだそうです。やはり悩みはなかったのだ!よかった!



通天閣と新世界


1995年の通天閣です。
通天閣には日本のタワーの一覧表があります。
通天閣はある意味大阪的なものの臍になります。「通天閣」から「じゃんじゃん横町」界隈は昔に比べるとずいぶんきれいになってしまいましたが、それでも大阪のにおいがプンプンとします。いわゆるディープ大阪で、ニューヨークで言えばハーレムの様なところと言って良いでしょう。「なにわカルチャー」の発信源です。大阪を知りたい人は是非行くべきです。

リリー・フランキーは「東京タワー?オカンとボクと、時々、オトン?」で東京タワーに命を与えた。一方、西加奈子は小説「通天閣」で通天閣に心を与えました。どちらもタワーの優しさに包まれて、いっぱいの涙があふれるお話しです。


新世界やジャンジャン横町は、昔は一般の人が立ち入るのは危ない場所でした。でも今は完全に観光化しています。道頓堀・難波ではまだ大阪文化が充分に満喫できないという通の方はこのディープ大阪の世界を訪問して下さい。ただし環状線を越えて南の方へは行かないように。昔は地元のおっちゃん達で賑わった串カツ屋は今や清潔な観光客向けのレストランになっています。左上は新世界のづぼらや本店、右上はジャンジャン横町にある将棋センター。坂田三吉はこういう世界で育ったのですね。ジャンジャン横町の「ジャンジャン」は芸者さんの三味線の音が賑やかだったことからつけられたそうです。



阪堺電車で住吉大社へ
平成20年の訪問は「天王寺から住吉大社へ」のサイトを!


住吉大社までは阪堺電車で


途中で帝塚山・ポアールに立ち寄ってケーキをいただきます。

住吉大社到着



そのほか、いろいろ・・


鶴橋商店街

リトル・コリアと言って良いところです。近畿地方(大和)の文化は古代から朝鮮半島との関わり合いで発展してきましたが、大阪はその入り口でした。大正区は沖縄県出身の方が多く住んでいらっしゃるそうです。また大阪のお風呂やさんには石川県出身の方が多いとも聞きました。文化の多様性は大阪の財産です。

大阪の普通のお好み焼き屋(阪急東通り商店街)。若いときです。


大阪天満宮、すぐ近くに落語専門の定席、「天満天神繁盛亭」が出来ている。

日本一ながーい商店街「天神橋筋商店街」、ウェッブサイトも二つに分かれています。天一〜天三天四〜天六写真は南のはずれ、天一です。

みずかけふどうさんと夫婦善哉
柳吉と蝶子が歩いていそうです。

追記:最近夫婦善哉の建物がビルになってしまいました。残念です。

アメリカ村
アメリカ村(三角公園)は若者であふれている。でも原宿や渋谷、下北沢とも明らかに違い、ここは紛れもなく大阪だ。喧噪とあふれる色彩、たこ焼きの屋台のにおい・・・、ゴッタ煮の様な大阪の若者文化はどこかアジア的な活力を感じる。

黒門市場
大阪の台所です。写真は日曜日の夕方なので人影は少ないです。黒門市場に来ていつも思うのは高級トラフグが並んでいることです。「てっさ」「てっちり」など大阪の人はふぐが大好きなのですね。






大阪が誇る日本一の山、天保山
大阪が誇る日本一低い山、天保山。これでほぼ山頂です。・・・なぬ、これが山?大阪は難解だ!
山岳会もあるそうです。右上は天保山を登山していた猫さん


日本キリスト教団 島之内教会
昔、浅川マキのコンサートが開かれた。今でもいろいろな文化的活動に使われている。


大塩平八郎を訪ねて

 大阪は幕府直轄地、ですからキャリア組の役人は江戸から来ていたのでしょう。そう言う人たちの眼が生活苦にあえいでいる大坂の人々に向いていたとは考えにくいです。自分の出世や自腹を肥やすことしか考えていなかったかもしれません。そんな中、飢饉で苦しむ人たちを救うため、腐敗社会に立ち向かった大阪の英雄が大塩平八郎です。自らの正義を実現するために、勝ち目のない戦いに挑んでいくのです。明治維新の30年前、幕藩政治はほころびを見せ始め、社会は流動的になってきていたのでしょう。 平成22年8月に訪問しました。
東町奉行所跡

大塩は東町奉行所の与力だった。大塩はこのたりで大阪城から出撃してきた軍勢にはばまれ散り散りになる。
与力町公園

このあたりは、与力町・同心町といった地名が残っている。与力や同心が住んでいた。
川崎東照宮跡

乱の当日、大塩軍が集合した場所。東照宮に集まったと言うのは皮肉です。その東照宮が今は残っていないというのがいかにも大阪らしいです。多分大坂人には家康さんを大切にしようという気持ちはさらさら無かったのかも知れません。
蓮興寺

大塩家・代々の菩提寺です。成正寺の隣です。この辺りは日蓮宗のお寺が多いのでしょうか?
成正寺(じょうしょうじ)

大塩平八郎のお墓があります。写真正面、門の中に見えます。




毛馬閘門と蕪村の生誕地

淀川の治水事業
 新淀川(現在の淀川)開削事業は、明治29年(1896年)から明治43年にかけて、我が国最初の本格的な治水工事として行われました。新淀川は、現在の守口市あたりから河口まで開削されました。これに併せて、現在の大川(旧淀川)入口の毛馬に水門・閘門を設けました。
 淀川の開削を含め、明治の時代によこもまあこんな大工事をやり遂げた感心してしまいます。現在に続く淀川の治水の基礎になるもので、現代の大阪人は大きな恩恵を受けており、先人たちの努力に頭が下がる思いがする。明治はやはり偉大な時代だったのだ。
 淀川(新淀川)と大川(旧淀川)の関係は、東京で言うところの荒川(放水路)と隅田川の関係に当たる。明治に造られた旧第一閘門やその周辺施設は国の重要文化財(産業遺産)にしてされている。
淀川の治水は「大阪府治水の歩み」に詳しい。

毛馬閘門

左下は国の重要文化財に指定されている古い毛馬閘門です。上流側の門になります。この奥に下流側の門があります。
右下は新しい毛馬閘門と水門です。淀川の土手の上から撮っています。写真の右にある淀川には淀川大堰があります。
なお閘門とは、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置です。

     
 
与謝蕪村生誕の地

蕪村は江戸時代中期の俳人・画家。淀川堤の句碑(写真、左下)には「春風や 堤長うして 家遠し」の詩が刻まれています。季節は冬ですが、僕たちも淀川の堤の上に立ち、遠くを見晴らして、蕪村のおうちはどのあたりだったのだろう?という感慨にふけります。

     
  


曽根崎心中

 尼崎にある近松門左衛門のお墓詣りをしてから、一度その作品を読んでみたいと思っていました。角田光代さんが原作を下敷きにした「曾根崎心中」を書下ろして出版されました。そこで早速読んでみました。曽根崎心中は近松の代表作の一つです。醤油屋の手代・徳兵衛と、堂島新地の遊郭天満屋の遊女のお初の恋の道行きです。

 真夜中。お初と徳兵衛は手を取り合い、堂島新地から梅田橋を抜け、曽根崎村の露天神の森へ向かいます。そこでお互いを連理の松の木に縛り情死しました。二人は命を懸けて叶わぬ恋を全うしましたのです。曽根崎の露天神は、あの世での二人の幸せを願って「お初天神」と呼ばれるようになりました。当時、この芝居(人形浄瑠璃・歌舞伎)がヒットして、心中ブームが起き幕府は心中物の公演を禁じたそうです。
お初天神
正式名称を露 天神社(つゆのてんじんしゃ)といいます。近松は元禄時代にこの神社で実際に起こった心中事件を題材しているそうです。
 
 蜆川(曽根崎川)跡
堂島新地とは堂島川と蜆川に囲まれた沼地を開発したものです。蜆川は現在は埋め立てられ新地本通りになっています。堂島新地は現在の北新地と重なります。土地の記憶は引き継がれているのですね。


安治川川底隧道と河村瑞賢紀功碑

安治川川底隧道
 安治川は水都大阪の主要水路(下流は大阪湾から全国へ、上流は淀川経由で京へ)でその両岸には廻船問屋や船宿が並んでいました。1944年この両岸をつなぐ隧道が建設されました。トンネルができる前は「源兵衛渡し」とよばれる渡し船で両岸は結ばれていましたが、陸上交通量の増加に渡し船では対応しきれず、また大型船の航行に支障となるため橋をかけることも難しかったため、橋ではなくトンネルが掘られました当初は自動車用の隧道も使われたが、現在は歩行者や自転車の隧道のみが使用されています。自動車用のエレベータが二機あります。日本初の沈埋式トンネルだそうです。
関門トンネル人道(海底トンネル)はこちらです。

河村瑞賢紀功碑
 旧淀川(大川)の下流に当たる九条島は洪水の被害が絶えませんでした。1684年(貞享元年)に幕府は治水の専門家である河村瑞賢に命じ、九条島を掘り割って淀川の水をまっすぐ大阪湾へそそぐようにしました。貞享四年に完成し新川と名付けられたが元禄十一年に安治川と改名された。「古川跡」は安治川開削前に流れていた水路で、終戦後、大阪府の防潮堤工事のために埋め立てられました。九条島は安治川で分割され九条と西九条に分かれました。またこの紀功碑は大阪城築城時の残念石と考えられています。大坂城築城の際、石垣に使用するために切り出された巨石で、何らかの事情で役目を果たせなかったものを残念石と呼んでいます

安治川川底隧道の入り口、左の大きな二台のエレベータは自動車用で現在は使われていない。右下に歩行者用のエレベータがある。
川底隧道の中、夏なのにびっくりするほど涼しい。
河村瑞賢紀功碑
残念石でできている。


大地震両川口津浪記石碑 (「大正区を歩く」に下記と同文があります。大正橋付近の記事がありますので、そちらも御覧ください。)
  安政元年(1854)11月4日・5日に発生した地震と、それに伴う津波によって犠牲となった人々の慰霊と、後世への戒めを語り継ぐことを目的として建てられた。大正駅近くの千日前通りの大正橋東詰にある。大阪ドームも近くにあり、大正橋の上からの眺望はとても良い。

  碑文には、安政元年(1854)の一連の地震の記述がある。特に十一月五日の南海地震の記事では、「申刻(16時)の本震の揺れによって、大阪では家の崩れ、出火も生じた。本震から2時間ほど経過した日暮れごろ、大津波が押し寄せ、安治川、木津川に山のような大波が入ってきた。地震の避難で大勢の人が乗りこんだ多数の船が川の上流に押し流され、橋にうち当たって転覆し、橋は落ち、さらに後から流されてきた船が折り重なった。この津波のために大阪全体で死者341人と伝えられる。」という記述がある。さらにその148年前の宝永地震でも同じことがあり、その教訓を生かすことができなかったことが書かれている。私たちは先人のこの教訓を忘れないようにしなければならない。

大正区と大正橋はこちら
 

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