西横堀川とその橋の跡を歩く    


 平成24年10月に僕たちは東横堀川を上流から下流へ一つずつ橋を渡りながら道頓堀まで歩きました。今回はその続きで東横堀川と対をなす、そして残念ながら今は亡き西横堀川の跡をたどることにしました。歩いたのは平成25年1月13日です。東横堀川と同じく上空は阪神高速が走っており、川は埋め立てられてほとんどの場所が駐車場となっていました。「水都大阪の川を埋めてその上に醜い高架道路を造る」、こういう悲しい都市計画はもう終わりにしてほしいです。西横堀川が水を湛え、そこを船が行き来し、上空に青空が広がり、川沿いに素敵なカフェやギャラリーが並び、文化の発信地になっている美しい町並みを想像してしまします。
 「大阪あそ歩」のマップを片手に歩きました。でもネットで検索しても西横堀川の橋と言うのはなかなか情報がありません。大阪の人たちの記憶の彼方へ消えていこうとしているのですね。頼りになるのはやはり「大阪あそ歩」です。ここから沢山引用させていただきました。ありがとうございます。

西横堀川跡


 西横堀川は1600年代前期に開削されました。永瀬七郎右衛門(材木商)によって開削されたので当初は七郎右衛門堀とも呼ばれ、堀に沿って多数の材木商が軒を並べていました。秀吉は東横堀川〜西横堀川までのいわゆる「船場」を開発しました。その後、大阪冬・夏の陣を経て大坂は幕府直轄地となり、西横堀川以西の「西船場エリア」が本格的に開発されました。西横堀川の一番北には西国橋がかかっていました。このあたりには両替商、加島屋(広岡)があり、明治・大正期には広岡財閥として名を馳せ、後に加島銀行さらに大同生命(ヴォーリズのページ)とつながります。西横堀川跡の碑(写真上左)のすぐ西側には大同生命大阪本社のビルがあります。
阪神高速道路開通記念碑




上の写真「西横堀川跡」の碑のすぐ隣にあります。

昭和39年に阪神高速1号環状線の一部(土佐堀から湊町までの区間)が開通しました。この記念碑は阪神高速道路公団創立20周年を記念して、昭和57年建てられたそうです。

 
筋違橋



西横堀川がが埋め立てられる前、一番上流に架かっていた橋は土佐堀通りが通る西国橋です。筋違橋(すじかい橋)は高麗橋筋から江戸堀1丁目にかけて筋違いに架けられていたためその名がつけられたようです。「大阪あそ歩」によると、「小鯛雀鮨で有名なすし萬は、17世紀半ば頃には西横堀川から一本東の筋である魚の棚筋で魚屋を営業する傍ら、雀鮨を販売していたようです。すし萬は江戸堀から筋違橋を渡ってすぐの所にあったので、筋違橋は、すしを買いに行く(すしかい)橋であったとも言えます。」と記述されています。
呉服橋 (伏見呉服町の碑)



この碑は西横堀川に架かっていた呉服橋跡の東側にあります。秀吉の大坂築城に際し、天正12年(1584)頃、京・伏見の呉服商人らは玉造に移住させられ、天正18年(1590)には伏見呉服町の町名が許可されました。やがて町の発展に伴い玉造の土地が狭くなり、元禄時代に伏見町に移転し、伏見呉服町と称したそうです。
平野町の千成瓢箪 街路灯



平野町の古い街路灯が保存され展示されています。
記念碑には、平野町商店街が大阪城の正面に当たる道路なので、特別誂えの千成瓢箪を型取った作品であると書いてあります。残念ながらいつの時代のものかは書いてありません。
京町堀川跡



京町橋跡のたもと(西側)にあります。
京町堀川は、元和3年(1617)に京・伏見から移住してきた町人によって掘られました。「大阪あそ歩」によると、京町堀川は、西横堀川の京町橋下流から分流し、海部堀川と合流して百間堀川に繋がっていました。物資の運搬などに利用されたそうです。

西横堀川からは他に立売堀など複数の堀が西に向かって開削されていました。
信濃橋



これまた「大阪あそ歩」によると、元は富田町橋、後に問橋と名前を変え、元禄年間には記録に信濃橋の名が見えるそうです。昭和40年に地下鉄四つ橋線開通した際、信濃橋駅という駅名が付けられ、後に本町駅に改められ現在に至りました。
火防(ひぶせ)陶器神社



「火防陶器神社の由来」という説明板には以下のように記載されています。
「江戸時代初期に旧靱南通りに祭祀されていた火除けの守り地蔵にその端を発する。当時陶磁器に保護などで大量の藁を取り扱っていた陶磁器商たちは、火災を極端に恐れこの地蔵尊にその守護を祈った。一方地蔵盆に集まる人々に感謝の心を込め奉仕の蔵ざらえを行ったのが「大阪せともの祭」の始まりである。その賑わしさは浪速の風物詩となった。昭和四十六年、阪神高速道路の建設に伴い坐摩神社の境内に火防陶器神社が再建され、現在に至っている。

という事で写真は坐摩神社の裏口(?)になります。表門はこちら。
瀬戸物町



火防陶器神社の周りには、写真のように瀬戸物屋さんが沢山あります。筋違橋から新町橋までは陶器商が多く、全国各地の陶磁器が瀬戸物町で売買されたそうです。以前は北富田町という地名でしたが、同名の町名があり延宝8年(1680)に瀬戸物町(=西横堀)と改称されたそうです。この町名は明治5年に改称されるまで使われました。幕末から明治、大正にかけては200以上のお店が軒を並べていたそうです。

新町橋



寛文12年(1672)、新町の遊郭にお客を運ぶため、船場側の通路として西横堀川に新町橋が架けられました。遊郭の中心である瓢箪町筋に通じていたため、「ひょうたん橋」とも称されました。
西六(さいろく)平和塔



新町橋碑(写真左)の向かって右側、つまり南側に隣接して「西六平和塔」という石碑が建っています。満州事変から太平洋戦争にいたる大戦への出征や空襲で亡くなったこの地区の人々を慰霊するために、昭和33(1958) 地区連合会によって建てられた慰霊碑です。
四ツ橋


長堀川と西横堀川が交差する地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称である。
○上繋橋(かみつなぎばし) :西横堀川に架かる北の橋。
○下繋橋(しもつなぎばし): 西横堀川に架かる南の橋。
○炭屋橋(すみやばし): 長堀川に架かる東の橋。旧町名「炭屋町」に由来。
○吉野屋橋(よしのやばし): 長堀川に架かる西の橋。旧町名「吉野屋町」に由来。
現在、上の写真のように長堀通の中央分離帯にミニチュアで四つの橋が復元されています。

    「めっちゃええとこやで 大阪!」に戻る