東横堀川とその橋を歩く    

 平成24年10月7日、僕たちは東横堀川を上流(大川からの分岐)から下流へ一つずつ橋を渡りながら道頓堀まで歩きました。東横堀川は、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で大阪城の外堀として開削されました。東横堀川の西はいわゆる船場(南部は島之内)で天下の台所と言われた大阪の中心になる商人の町です。東側の上町台地は寺町や武家の町になります。現在、東横堀川の上を阪神高速道路が通り、東京の日本橋と同様、かなり景観を害しているのが残念です。

公儀橋と町橋
 江戸の橋がすべて幕府直轄の公儀橋(こうぎばし)として架けられたのに対し、大阪は公儀橋が12本だけです。あとはすべて、町人が私費を投じて架け、自治管理をした町橋(まちばし)でした。大阪商人の心意気を感じます。現在でも町橋には橋を架けた人物に因(ちな)んだ橋名がいくつか残っています。最も有名なのは、淀屋橋にその名を残す江戸初期の豪商・淀屋です。

葭屋橋(右)と今橋(左)
葭屋橋(よしやばし)と今橋の東側はつながっているので、一枚の写真で済ませます。左が今橋、右が葭屋橋です。大川との分岐点で一番上流にあるのが葭屋橋です。蟹島遊郭(築地)への通路として設けられた橋です。料理屋や旅館が集まっていました。花外楼もそういう環境で立地していたのかもしれません。一方、今橋のあたりは江戸時代には大両替商が軒を並べ、大阪の金融街でした。今の北浜につながるのかもしれません。
花外楼

天保年間創業の老舗の料亭です。明治八年に大阪会議が開催されました。大阪会議とは大久保利通・木戸孝允・板垣退助らがここに集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)について協議した会議です。
24年10月の訪問時に写真の建物はなく、ビルの新築工事現場になっていました。

今橋を船場の方に進んだところにある開平小学校の外壁には天秤の絵のタイルが使ってあります。両替商が多かった名残です。

高麗橋
大阪城と船場をつなぐもっとも重要な橋で公儀橋です。擬宝珠は公儀橋だけに許される飾りなんだそうです。西詰には御触書を掲げる高札場、明治時代には東詰に里程元標がおかれました。名前の由来については、@古代朝鮮半島から使節を迎える為に造られた迎賓館の名の由来と、A豊臣秀吉の朝鮮半島との通商の中心地だったからと言う2説があります。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店)や三井両替所など様々な業種の店があり人々の往来が激しく、商売の中心地でした。明治三年に大阪で初めての鉄橋に建て替えられました。
東横堀川水門と観光船
東横堀川水門は、平成12年に完成しました。洪水被害を防ぐ働きの他、この水門は道頓堀川水門と対になった船を通すための閘門となっています。お邪魔した時には、大橋川側(上流)が東横堀川より水位が高いようでした。大阪観光クルーズの船が沢山行きかっています。
 
平野橋とその親柱
江戸時代に、平野橋を東に行ったところに神明神社(神明さん)、西に行ったところに御霊神社(御霊さん)があり、その門前の盛り場として栄えたそうです。定期的に開かれた夜市は当時の大坂の名物だったとといわれています。写真右下の平野橋親柱は、何故か平野橋から少し離れたマンションの中に取り残されています。
平野橋の西側には古い町屋風のお店が何軒か残っています。

大手橋
橋を渡って東にまっすぐ行くと大阪城の大手門につながるからこの名があるそうです。古くは思案橋と呼ばれたそうです。橋の西側は行き止まりで北に行くか南に行くか思案したからこの名がついたという説があります。
岸本瓦町邸 (国登録有形文化財)
1931年に輸入業を行っていた岸本吉衛門が、笹川慎一(住友工作部)に設計を依頼して建てたもの。竜山石による外装が美しい。
本町橋
現存する大阪最古の橋です。高麗橋と同じく江戸時代には公儀橋でした。秀吉が大阪地区上に際して横堀川を開削した時に造られたそうです。現在の橋は大正2年(1913年)に建築されました。
曲り渕地蔵尊
東横堀川はおおむね直線状に流れていますが、本町橋と農人橋の間で東にずれています。 これは東横堀川が 開削されたときここに浄国寺という寺があり、これを避けたためであるらしいです。ここに当時多発した水難除けにお地蔵さんが祀られました。僕たちが行ったときには柵に囲まれ入ることができませんでした。
ゼー六

家焙煎の珈琲と自家製のアイスクリームで人気の可愛いお店です。特にアイスモナカも有名だそうです。日曜はお休みでした。ネットで調べてみると中川イサトがこの店でライブをしたことがあるらしいです。

農人橋
江戸時代は幕府管理の公儀橋の1つだったそうです。橋名の由来は、古来から農民が田畑に行き交う為の橋だったからだそうです。でもこのあたりに農地があったのでしょうか?土橋と同じような型式であったそうです。
久宝寺橋

安堂寺橋

末吉橋
末吉橋は南蛮貿易で活躍した平野の豪商、末吉孫左衛門が架けたと言い伝えられています。其の末吉家の別邸が橋の西詰めに有ったとも言われているらしいです。
九乃助橋
此の辺りは銅吹所(右)をはじめ鋳物屋、鍛冶屋などが多く、工業の街だったようです。町橋であった為、町々からの拠出金によって維持管理されて来たそうです。
住友長堀銅吹所
江戸時代に大阪は銅製錬業の中心地であった。この地に全国から粗銅が集められ製錬されていた。住友長堀銅吹所は住友家が1636年に開設した日本最大の銅精錬所で日本の生産の1/3を生産していた。写真は住友家本邸内のわが国最古のビリヤード場です。
東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
東横堀川の橋はここまで。ここから川は下流に向かって90度右に曲り、道頓堀となります。
下大和橋
大川より分かれ葭屋橋から南に流れる東横掘川は上大和橋下流で直角に右に曲がり道頓掘川となる。道頓堀川の最上流に架かる橋が下大和橋である。
天野屋利兵衛の碑
北浜一丁目にお店がある廻船問屋の主人。「仮名手本忠臣蔵十段目」では名前が天川屋義平。赤穂浪士の熱烈なサポーターで討ち入りに必要な武器一式を取り揃えたとされる。「天野屋利兵衛は男でござる。」のセリフで有名。石碑には「義侠 天野屋利兵衛之碑」と記されている。
井原西鶴文学碑

「日本永代蔵」の一説が彫られている。左側の写真・天野屋利兵衛の碑の隣にある。

東横堀川で出会った「よこほり猫さん」達です。また会おうね、それまで元気で!

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