堂島新地を歩く    

 北の新地といえば、「曾根崎心中」と「心中天網島」のふたつの物語を生んだ土地です。僕たちには縁がないと思っていた新地ですが、尼崎にある近松門左衛門のお墓詣りをし、角田光代さんの「曾根崎心中」を読んでその跡をたどってみたいと思うようになりました。という事で平成25年1月13日に主に蜆川跡をたどりながら 「大阪あそ歩」のマップを片手に歩きました。近松門左衛門、地図で見る「道行名残の橋づくし」のサイトの地図をみると古い掘や橋のオリエンテーションがつきやすいです。

 1688年(元禄元年)、蜆川の南側に堂島新地ができ、1708年(宝永5年)、今度は蜆川の北側に、曽根崎新地が誕生します。遊女を置く茶屋がたくさんできて、これが今の、北の新地の原型になっていきます。堂島新地の北の境界に当たり、近松作品にの舞台になった蜆川とその橋ですが、明治42年の「北の大火」のとき、瓦礫の捨て場となって埋め立てられはじめ、大正13年にすべて埋め立てられて姿を消しました。 という事で今回は埋め立てられた蜆川の跡とそこに架かっていた橋を探しながら歩きました。

蜆川 (曽根崎川)
 
蜆(しじみ)川は曽根崎川・梅田川・福島川などとも呼ばれ、堂島川に掛かる大江橋の上流で堂島川から北に分岐し(小さいけど右上地図参照)、弓状に湾曲して堂島の西端で堂島川に合流していました。貞享年間(1684〜88年)から元禄年間(1688〜1704年)にかけてに河村瑞賢(安治川を開削した)がこの川を改修し、堂島新地・曽根崎新地が開発されました。これらの新地の茶屋は蔵屋敷や商家などの集う色町として栄え、川に面して座敷があり、物売りの舟や夏には夕涼みの舟が漕ぎ出されたそうです。

蜆川の名前の由来には諸説あるようです。浄祐寺の和尚さんは、「白いきれいな蜆がたくさん取れていた」、「矢頭右衛門七が父のために蜆を取っていた」などというお話を聞かせてくれました。そちらの蜆から来たのかもしれません。
 
新地本通り(蜆川跡)と蜆橋跡
 
写真右上は新地の本通り(蜆川の川筋跡)が御堂筋(梅田新道?)と交差するところです。ここに蜆橋が架かっていました。「史蹟 蜆橋跡」の碑は御堂筋(梅田新道?)に面した滋賀銀行ビルの一角に埋め込まれているそうですが、探し損ねました。左上の写真「蜆橋銅版標」は上のコマの蜆川跡の記念碑のすぐ横に設置されているもので、在りし日の蜆橋の様子がレリーフになっています。この銅版標には木谷蓬吟の、近松を称える名文が綴られています。
お初天神(露天神)



お初天神は堂島ではなくて曽根崎になります。
曽根崎心中とお初天神は「大阪、いろいろ」のサイトへどうぞ!

正式名称を露 天神社(つゆのてんじんしゃ)といいますが、「お初天神」の通称で広く知られています。社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」を祀っていたとされます。創建は西暦700年頃とされ、「難波八十島祭」の旧跡の一社とされています。社名は、菅原道真が大宰府へ左遷される途中に、ここで都を偲んで涙を流したから、また梅雨のころに神社の前の井戸から水がわき出たためともいわれています。

元禄16年(1703)に境内で実際にあった遊女と手代の心中事件を題材として、近松門左衛門が『曽根崎心中』を書き、そのヒロインであるお初の名前から「お初天神」と呼ばれるようになりました。

河庄跡



『心中天の網島』に登場する茶屋・河内屋の跡地です。河内屋庄兵衛の茶屋で河庄と呼ばれました。遊女の小春の打ち明け話を隠れ聞いた紙屋治兵衛が逆上する「河庄」の場面で非常に有名です。


桜橋跡


蜆川にかかっていた橋の跡です。「北の大火」で消失しました。現在の堂島上通りは蜆川の南岸にあたります。『心中天の網島』の「名残の橋尽し」では「別れを嘆き、悲しみて、後にこがるる桜橋」と描かれています。
堂島薬師堂



すごくモダンな薬師堂ですが、推古天皇の時代からこの地にあり、「堂島」の名前の由来にもなったという由緒ある薬師堂なんです。堂島川と蜆川に囲まれた島のお堂という事で堂島なんですね。平成11年(1999) 、このモダンなお堂に生まれ変わりました。


出入橋・梅田運河



明治38年(1905)に阪神電車が大阪-神戸間に開通しましたが、その当時の大阪の起点はここ出入橋でした。当時は、まだまだ船を利用して大阪駅まで荷物を運ぶ海運が盛んで、梅田運河(堂島川に通じていました)に架かる出入橋は交通の要所でした。運河は現在埋め立てられています。また出入橋のすぐ近くに賑やかだった当時から続くきんつば屋さんがあります。
浄祐寺



新地の遊女たちの信仰を集めたお寺です。曽根崎新地で武士に切り殺された遊女・菊野ら5人の墓、「五大力の墓」があります。事件は歌舞伎「五大力恋緘」になり大ヒットしたそうです。また、父の遺志を継ぎ、17 歳で赤穂浪士の討ち入りに参加した矢頭右衛門七(やとうえもしち)と父親の墓もあります。

矢頭長助、矢頭右衛門七父子のお墓はこちらのサイトへ!
梅田橋跡あたり、NTTの外壁に取り付けてある阪大微研跡



梅田橋は現在では跡形もありませんが、NTT 堂島ビル付近にあったと思われます。このビルには上の写真のように「大阪大学微生物研究所創設の地」の碑があります(筋向かいには梅田橋ビルがある)。

梅田橋は曽根崎心中道行の始まりともなり、お初・徳兵衛は梅田橋を「かささぎ橋」に見立て、冥土の道行の最初に渡りました。お初がいた遊女屋の天満屋はこの近くにあり、梅田橋界隈は新地で最もにぎわっていた場所でした。また「心中天の網島」はじまる大和屋もこの付近にありました。

近松門在衛門の心中物には「心中天の網島」の道行における橋尽くしをはじめ、蜆川と橋が舞台になっているものが多いのです。
堂島米市場跡



江戸時代、諸藩は中之島周辺に蔵屋敷を置き、領国から送られてきた蔵米を換金した。やがて販売事務を町人(商人)が代わって行うようになった。米取引を最初に行ったのが淀屋橋に名を残す淀屋と言われる。1705年(宝永2年)淀屋が幕府によって財産没収となった後、堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立した。

 江戸時代には大坂のほか各所に米市が立っていた。しかし堂島米市場で立った相場で取引がなされ、従ってここで立った相場が全国の米相場の基準とされた。この取引の手法は、大阪証券取引所を始めとする、世界各地の組織化された商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、先物取引発祥の地とされている。
 1876年(明治9年) に「堂島米穀取引所」と改称され、1939年(昭和14年)に廃止された。
後の大阪証券取引所につながります。

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