今井町を歩く



 僕たちは平成20年10月12日に、近鉄急行に乗って上本町から八木西口駅経由で奈良県橿原市の今井町を訪れました。今まで訪問した平野郷富田林寺内町の続きで中世環濠都市・寺内町に興味があったからです。

 今井は、富田林の寺内町と同様に、一向宗徒が称念寺を中心に独立自治の環濠都市を建設したものです。他の環濠都市と同様に戦国時代にその歴史が始まります。橿原市教育委員会の資料によると、1532年頃には今井庄環濠集落として出発し、次第に西へ町域を拡大し東西600m、南北310mの現在に続く町割りになったそうです。

 戦国の世は武装都市として地域の豪族や野武士団と戦い、天下統一の過程では武装解除して権力と折り合い、金融や商業の町として発展してきました。住民は誰の力も借りず、自分自身の力で町を守り大きく発展させてきたのです。今井の繁栄は「海の堺」に対して「陸の今井」と言われました。またその豊かさゆえ「大和の金は今井に七分」とも称されました。

 現在の今井町は江戸時代以前の住宅が多く残されています。700軒余りのうち60%以上が江戸時代より建物だそうです。町全体が国の重要伝統的建造物群保存地域に指定され、国の重要文化財が9件、県の指定文化財が3件、市の指定文化財が6件にも及びます。新しい住宅も街の雰囲気に合わせて建てられており、町の中心部は電線の地中化がなされています。多くの家が現在も居住しておられますが、日にちや時間帯によっては一部を拝見することが可能です。でも維持するのは大変なのでしょうね。

 僕たちは、御堂筋の土産物屋さんでどっから来たか聞かれました。「鳥取から」と言うと今まで聞いた中で一番遠い所から来た!と感激されました。確かに鳥取から奈良の名所を巡る人は沢山ありますが、今井町を!と言う人は少ないでしょうね。



今井の町並み
東西600m、南北310mの町割りは時代と共に拡張してきた。


称念寺、本堂
今井の人たちの心のふるさとです。
旧常福寺観音堂


環 濠

環濠は外環濠・中環濠・内環濠、その間の土居からなっている。左下の写真に見えるのは左が内環濠、右が中環濠、家内が立っているのが土居(土塁)の跡です。今まで訪問した環濠集落では、環濠跡はありましたが本物の環濠を初めて見て感激です。実際にこういうところを見ると、城塞都市の姿が実感されます。



今西家
惣年寄り筆頭家、豪華絢爛というより豪壮な建物です。
豊田家
今西家に並ぶお家だそうです。本家分家の建物が並んでいます。
高木家
河合家
中橋家
今井まちや館(金物屋又兵衛住宅)(見学しました)
音村家(見学しました)
音村家は金物屋さんで11代目、武家への金融業も行っていた。武家の出入りがあるため家の中では上から見下ろさないように二階の構造がありません。屋敷の一番奥には納戸があり、主人だけが中に入り、内から鍵をかけて寝泊まりしたのだそうです。
旧米谷家(見学しました)
土蔵の前に隠居所を建てた。土蔵の中には財宝がしまってあったのでしょう。音村家と同様、金物屋さんだったそうです。


竈 (かまど)
町の発展に伴い、町域は拡大した。そのため数軒の差で100年近い違いがあったりする。例えば、その違いは、数軒隣の音村家と旧米谷家の竈を見れば分かる。左下が旧米谷家の竈で動線を短くするため勾玉の形をしている。一方、右下の竈は音村家のもの、古いタイプで竈が単体になっている。



山尾家
吉村家(お店になっており玄関周囲のみ見学)
上田家
南尊坊門跡(中と北もあり、町の東側です。)
蘇武(そぶ)橋と飛鳥川 背景に畝傍山
聖徳太子が太子道を通って、斑鳩宮から明日香村へ通った道だそうです。

蘇武橋のエノキ (推定樹齢420年)
蘇武之井(北側です。南側にもあります。)
蘇武橋の袂に、聖徳太子が馬を止めて水を飲ませたと伝える井戸が今も残っています
粋庵
今井町の中にあるおそば屋さんです。おいしいです。
順明寺
今井まちなみ交流センター「華甍」
旧高市市教育博物館・旧今井町役場。明治時代に建てられた和洋折衷の建物です。今井の見学の情報センターになっています。最初にどうぞ。
今井のお薬です。端壮薬品の「おにみみ」
今井であった猫さんたち
屋根の上から耳だけ見えるよ!
 

「めっちゃええとこやで 大阪!」に戻る

「僕たちの小さな国内旅行」に戻る