石見銀山戦国時代から江戸時代まで日本を、いや世界を代表する銀山のひとつだった。最盛期は世界の銀の三分の一を産出していたらしい。特に安土桃山時代から江戸時代初期までが最盛期で、シルバー・ラッシュに沸く人口二十万の一大鉱業都市だったらしい。今では人口五百人ほどの小さな村に、当時の大阪や京都の人口が集まっていたことになる。江戸幕府の管理が強まるまでは、産出した銀は銀山街道を通り日本海へ運ばれ、博多商人の東アジアネットワークに乗って海路で世界へ広がった。そのため石見銀山の名前は南米ボリビアのポトシ銀山などと並び、ヨーロッパで描かれた多くの古地図に記載されている。石見銀山の鉱山技術者や製錬技術者はその後、佐渡金山や生野銀山に招かれた。これらの地区には今でもその末裔である石見や岩見姓が多く残っているらしい。地元では世界遺産への登録を進めている。
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