アメリカ社会とサッカー (中井一仁)
2002年5月記
2008年9月追記



 野球やアメリカンフットボールなどのアメリカ型ボールゲームとサッカーの違いについて思いを巡らしていたのですが、世界サッカー紀行2002(後藤健生著、文藝春秋)というヒントに出会いました。「なぜアメリカ人はサッカーが嫌いなのか?」という疑問に対して、著者は「不条理の旧大陸から合理的で正義に立脚した新大陸へ移住したアメリカ人にとって、サッカーは許し難い不条理なスポーツである。」と言うのです。

 サッカーは強いものが勝つとは限りません。アトランタオリンピックの日本対ブラジル戦のように一方的にボールを支配されていても、たった一回のチャンスでゴールを奪い神懸かり的な幸運で90分間を守りきることも出来ます。つまりサッカーではどんなに実力差があっても運不運が勝敗に関わってきます。サッカーにおける戦略とは「勝利の女神の顔色をうかがいながら、不確実性の中で勝利するための確率を上げる工夫をする」という事です。

 運不運が勝敗に関わる点について、サッカーが好きな人は「だからサッカーは面白い」と言い、アメリカ人は「合理的でない」と考えます。アメリカ人にとってスポーツとは強い者が勝つのが当然です。アメリカのスポーツは強い者が勝つように出来ているし、もしそうでない結果が出るとしたらそのスポーツは不条理なものであって、ルールのどこかが間違っていると考えます。

 良い例が自動車レースです。ヨーロッパのモナコグランプリのようなF1レースでは、追い越すポイントがほとんどないくらい狭く折れ曲がったコースで競争し、速いものが勝てるとは限りません。一方アメリカのレースは、幅が広くカーブがないオーバルコースで争われます。つまり本当に早いものだけが勝てる環境の中で争われ、自由競争を阻害する障壁は許さないようになっています。

 別の例をあげれば、例えば実力が100のチーム「A」と80の「B」のチームがあるとします。それがバスケットの場合、第1クォータが終わるとA=25点、B=20点となり第二クォータが終わるとA=50点、B=40点となるでしょう。アメリカらしく時計係がいて一秒も違わずゲームが終わると、スコアはおよそ100対80になっているはずです。バレーボールの場合はセット制ですが、それでもポイントの和で考えると、AとBの点数の比は100対80程度になるはずです。

 ところがサッカーはロウ・スコア・ゲームです。100対80の力の比であるならば「1対1」、「2対2」、「1対2」の接戦になるでしょう。さらにアメリカンスポーツの審判と違って、ゲームの流れを大切にし、できるだけゲームを止めないサッカーでは、予想できないちょっとしたボールの弾みで得点となります。つまり100対80の力の差ではどちらが勝つかやってみなければ分からないのです。これがアメリカ人にとっては不合理であり、サッカー好きにはたまらない点なのです。

 アメリカ人は競争とは「強い者が勝てる仕組みの上で争うべきだ」と考えているようです。政治や経済の分野でもそうであり、そんなアメリカが貿易競争をして負けるとしたら、相手国が不公正な手段を使ったかその貿易ルールが間違っていると考えます。

 今まで私たちが最高のスポーツであると思っていたプロ野球は、グローバル化が始まった現在、実は「極東のドメスティックな企業宣伝隊による閉鎖されたスポーツリーグ」であったと言うことに気づくようになりました。サッカーは世界中でもっとも愛され、民族や宗教を越えて同じ協会・同じルールで戦われるグローバルなスポーツです。アメリカンスタンダードがグローバルスタンダードではないという巨大な証明でもあるのです。

 サッカーの魅力は一瞬にして奇跡のように生まれるゴールの瞬間にあります。選手はもちろん私たち観衆も90分間、片時も集中を切らすことは出来ません。ゴールは規律(discipline)とファンタジアという相反する命題を克服し、勝利の女神がほほえんだ「煌めくような瞬間」に生まれるのです。