シベリア旅行

中井挙子(なかいみなこ)



 約25年も前のことである。大学卒業の思い出にどこか卒業旅行にいこうということになり計画がすすんでいった。男性群は何を期待していたのか、台湾とか香港とか騒いでいたが、結局二度といけないだろうということでシベリアに決まった。

 「横浜から船に乗ってシベリアに着いた〜〜〜。」と軽く思ってたが、船中泊2日、54時間もかかった。しかも船は隠岐汽船よりはるかに小さかった。別れのテープに送られて、バイカル号は旅だった。(今は航空事情がよくなったため、この船旅はもうないそうだ。)三陸沖をぬけ、津軽海峡を通るまでは揺れはあってもがまんできた。甲板で輪投げをしたり、夜は船員達が生演奏をしてロシア民謡を歌ってくれた。オホーツクに出たとたん、その揺れは並大抵のものではなく、ほとんど全員が船酔いした。

 でもナホトカに着いたときは感激だった。霧のなかに読めないロシア語の看板がみえ、異国にきたという実感がした。ナホトカからはシベリア鉄道に乗り換えてハバロフスクにむかった。寝台車で、なかは簡素だがコンパートメントになっており、車窓からは雄大な自然が広がりまさにシベリア大陸であった。食堂車もついていてなかなかのご馳走がでた。ただ我々のくちにあわず、生まれてはじめて食べるボルシチは油の厚い層をかきわけて飲み、手のひらほどのおおきなタンステーキはみためもそのままで食べられなかった。これ以来タンは一生食わずぎらいとなった。


(バイカル号の乗船券)

 ナホトカに着いた時から二人のロシア人の添乗員がついた。一人はナターシャという二十歳前後の娘で、もう一人は年齢不詳の男性だった。この男性は政府関係ということで、飛行機や工場などを写真に撮るなといってきていつも私達を監視していた。


(ナホトカ港)

 4日目にやっと町らしきところにたどりついた。アムール河岸の大都ハバロフスクである。
 ハバロフスクはホワイトタウンと呼ばれ、建物の大部分が白い石でつくられていて、とてもきれいな街である。あちらこちらに記念碑があり、ソビエト国家の創設者レーニンの銅像は、市民がとくべつ大事にしているものである。市内の見学をざっとして、はじめてのホテルにむかった。ホテルの外観は立派であったが、中にはいると華やかなロビーもなく、部屋はただ広いだけで家具は古く、ベッドは木で作られた簡素なものだった。もちろん部屋の中にはトイレもなく風呂もなかった。各階にたった一つだけシャワーがあり、時間制でまず女性群からはいったが、途中で湯がとまり男性群は半分も入れなかったそうだ。夕方からサーカスをみにいくことになり、みんな少しおしゃれをして出かけた。空中ブランコ、一輪車乗り、綱渡り、猛獣使い、ピエロ、みんなすばらしいもので、とくにわかい女の子は足が長く、色が抜けるように白くきれいで抜群のスタイルだった。初めてのホテルの夜は八月だというのに寒く毛布一枚でよく眠れなかった。


(シベリア鉄道)

 5日目はよく晴れた日で、アムール河で船に乗った。アムール河は広く深く向こう岸はみえずほとんど海という感じだった。昼食はレストランで牛肉のステーキ、パン、サラダだったが、肉はスリッパのようなかたさで塩味もなく、パンはカラス麦かなんかですっぱく、サラダはおばけのようなキュウリがはいっていてほとんど食べることができなかった。午後はハバロフスク空港からアエロフロートに乗ってイルクーツクにむかった。イルクーツクは東シベリアの工業と文化の大中心地で、また学生のまちとも呼ばれ、総合大学や単科大学も多く大都会であった。

 夕方から懇談会という名目でどこか講堂のようなところへ連れて行かれた。おもてには背広を着た人や軍服を着た人が数人いてなんだかものものしかった。私達は立たされたままその中のえらそうな軍人のような人から社会主義のすばらしさやロシアの発展ぶりを約一時間もきかされた。聞いてないと撃ち殺されるかもしれないと思うぐらいはりつめた時間だった。その夜はみんなで持ってきていたカップヌードルやおかきを食べて「日本ばんざい、民主主義ばんざい」とさわいだ。

 6日目は待望のバイカル湖行きバスツアー。ところが朝から曇り空、バイカル湖に到着したようだったが、霧と雨で全くなにもみえず神秘な湖は私達の迫力に負けてかとうとう顔をみせてくれなかった。これで終わりかと思ったら、突然バスの運転手がバラライカを取り出し演奏しはじめた。続いてバスガイドが手拍子をはじめロシア民謡が次々流れ、ロシア人達が踊り始めた。私達も見よう見まねで踊り、楽しい国際交流のひとときだった。特にコサックダンスはすばらしく、運転手も湖で働いている人々もみんな踊れることに感激した

 7日目はイルクーツクの市内見学と大学病院の見学だった。日本より十年は遅れている医療で、レントゲンの機械、手術室、いずれも古いものだった。でもロシア人の案内してくれた医者は日本よりはるかに進んでいるだろうと説明した。外科部長や手術の執刀医はみな女性でしかも私達の三倍はあるような体格をしていた。能力さえあれば女性でもどんどん上にあがれるのは今の日本でも難しく、この数年後私達女医はこのことをさんざん思い知らされることとなる。
 さてイルクーツクからハバロフスクへもどるアエロフロートは雨、強風のため出発が延期になった。日本だとこれくらいの天候でと思ったが、数時間後に乗り込んだときそのわけがわかったのである。なんと飛んでいる飛行機の後ろは雨漏りがしていたのだ。みんな生きた心地もなく一時間の飛行でハバロフスクに着いたときにはほっとした。アエロフロートが軍用機のお古を使ってるという話は本当だった。


(ロシアの小学生)

 最後の日は幼稚園の見学、シベリア抑留日本兵の墓地、市内の自由行動など盛りだくさんの一日となった。街はちょうどスイカの配給日で長い行列ができ、公園では私達をみた子供達が「ギブミイチュウインガム」という英語だけをいって追いかけてきた。戦争を知らない私達団塊の世代にはショックな光景で豊かな日本に育っていることにあらためて感謝した。

 ハバロフスクからは日本航空で新潟に迎いなつかしの日本にもどってきた。日本に着いたとたん日本食(とくにそばと寿司)を餓鬼のようにむさぼり食べた。
 あれから25年、ソビエト連邦はロシアになり、次々独立国ができてロシアも変わっただろう。大変な旅だったが、こんな経験は二度とできないであろうと今懐かしく思い出している。

 左はロシアから買って帰ったバラライカです。右の写真の左のお人形はポットウォーマーですが、日本の人形には決してあり得ないロシアのおばさんの顔ですよね。同じく右は縁起物のマトリョーシカです。これは日本で買ったものですが、ソ連の時代に作られたのものです。