イスタンブール雑感

中井一仁

 2007年9月に僕たちは三泊六日(四日滞在)のイスタンブール弾丸旅行を敢行しました。このサイトはその時の記録です。僕たちの旅行は仕事の関係で短時日で往復する日程になります。でも僕たちは旅行に行く前に山ほど本を読んでいきます。ビザンチンやオスマントルコ、さらにはバルカン半島の歴史や美術に関する書物。東方正教会やイスラム教に関する書物などなど、ですから数日の訪問は、実はイスタンブールへの長い旅の締めくくりにすぎないのです。


 トルコはNATOにも入り、サッカー連盟もヨーロッパ(UEFA)に所属している。EUへの加盟もめざしている。しかしイスラムであること(バルカン半島にはアルバニアなど、オスマンに支配された時代もありイスラムの人は多いが)、同じアジア系ヨーロッパ人でもハンガリーやフィンランドとは明らかに異なったアジア的風貌をしていること、などからヨーロッパとは異質な感じを受ける。街も香港にも似たアジア的喧噪にあふれている。薄汚くても明らかにヨーロッパなブタペストとは明らかに違う。EUとは政治統合・経済統合する事。しかし統合は明らかにヨーロッパ的、それも西欧的な倫理観、宗教観、価値観を基礎にしている。トルコの異質な感じは短期間の滞在でも払拭できない。EUだけがトルコの道だろうか?ヨーロッパだけでなく、非ヨーロッパの道も探すべきではないだろうか?通貨に関しては、ホテルのレストランの料金はユーロで請求された。現地の旅行会社のツアーで参加したベリーダンスショーもドルだった。一般にトルコリラよりユーロやドルを喜ぶようだ。トルコは激しいインフレとデノミを経験しており、リラへの信頼は低いようだ。

 トルコ系民族(テュルク)は日本人と同じアルタイ語族である。起源は中央アジア・トルキスタンで、我々モンゴル系と元々は同じようなところに住んでいたらしい。トルコ系民族は、中国西部のウイグル人からはじまり、トルクメニスタン(トルコ人の土地という意味)やウズベキスタンなど中央アジアのオアシス地帯からトルコ共和国に至るまで広く分布している。現在のトルコは、もともとは中央アジアの遊牧民でその一部がイラン高原・アナトリアからバルカン半島にむかったものだ(セルジュクからオスマン)。でも移動で混血が進み現在の顔つきは中央アジアのトルコ・モンゴルの特徴をほとんど残さない。ほとんどヨーロッパ人と変わらない人もいる。昔、NHKのシルクロード関係の番組で中央アジアのトルコ系住民が、シルクロードの列車やバスを使ってトルコ共和国の親戚に会いに行く姿が映されていた。遠く離れても同族の繋がりがあるのだ。

 トルコ人はトプカプ宮殿においても、また現在の食生活においても遊牧民であった歴史を残している。料理は羊(ケバブなど)とヨーグルトが中心で遊牧民の食事だ。いまだにイスタンブール市内でも城壁地区やクルド人居住区などでは羊を飼っている人がいるらしい。乳をとるほか、お目出たいときには屠殺してご馳走にするらしい。博物館にヤルという遊牧民時代の移動テント(モンゴルで言えばパオorゲル)が展示されていたが、トプカプ宮殿も西洋の宮殿とは全く異なり、その構造は遊牧民のテント時代の名残をそのまま残すものだ。つまり広い敷地の中に、目的別の丸屋根の小屋(テント)が建っている。移動は出来ないが、大平原の移動テント村と同じ構造なのだ。彼らの遺伝子には遊牧の記憶がすり込まれたままなのだ。

 イスタンブールは古代ギリシャからローマ・ビザンティン時代を経てオスマントルコにいたる重層的な歴史を重ねている。従って遺跡や文化も重層的だ。見るべきものが多い。オスマンはイスタンブールを占領後、現在に至るまで異教徒の存在に寛容だ。従ってアヤ・ソフィアをはじめとしてビザンティンの遺跡を多く残すことが出来た。この点、異教徒を完全に駆逐したスペインのレコンキスタとは明らかに違う。トプカプ地区にはアルメニア教会が複数あり、アルメニア教会のイスタンブール総主教座も政府により認められている。トルコによるきびしい弾圧後も残留したアルメニア人がふるさとの地を遠く離れてここに暮らしている。またフェネル地区にはギリシャ正教の教会があり、少数ながらギリシャ人のコミュニティが存在する。またガラタ地区にはシナゴーグもある。トルコは政府の管理下におきながらも、それぞれの民族と宗教を認め自治権を与えてきたのだ。少なくともトルコにおいてイスラム教が排他的だというのは間違いである。フェネル地区にある正教会はアヤソフィアからの伝統であるギリシャ正教の総主教座がある。この総主教座はオスマンから世界総主教座の名称をもらっている。つまり世界のキリスト教徒の上にスルタンがいるのだという発想である。

 ビザンティンはギリシャ人のローマだ。カトリックはラテン、正教はギリシャ文字であることからもよく分かる。十字軍のコンスタンチノープル略奪・占領に西側カトリックのビザンティンに対する見方が良く表れている。西欧カトリックにとってビザンティン(東方正教)はオスマンと変わらぬ異教徒であったのだろう。近代、ギリシャは西欧の支持の元にオスマントルコから独立した。西欧の支持は古代ギリシャがヨーロッパ文明の起源であるという認識があったからであろう。その当時、ギリシャ人にとって自分たちの心のふるさと・宗教的聖地はコンスタンチノープルであったが、ヨーロッパ人にとってギリシャ世界の中心はアテネであった。だからギリシャの独立はアテネとセットでできあがったものである。いまでもギリシャの人たちはイスタンブールをコンスタンチノポリスと呼んでいる。ギリシャの独立は、バルカン半島に於ける民族主義の台頭やオスマントルコの弱体化などの結果もたらされたものである。独立に際して当時の世界総主教は教会の前で首つりにされたそうである。また希土戦争後、独立時に策定された国境のトルコに住むギリシャ人とギリシャに住むトルコ人の交換が行われた(ローザンヌ条約)。ただこの住民交換でもイスタンブールにおける正教徒コミュニティーは例外とされ残ることになった。しかしイスタンブールに住むギリシャ人の数は次第に少なくなり、世界総主教座の維持は難しくなっている。

 三泊四日、イスタンブールに住むとまず驚くのは、一日に5回、町中のモスクのミナレットからアザーンの声がこだまする事である。一日の最初は早朝5時頃で毎朝この音で目が覚める。また、旧市街や新市街のガラタ地区は坂の街でまるでサンフランシスコのようだ。その上、大昔から変わっていないので道路が細く入り組んでいる。街角のあちこちにいる物売りにも驚かされる。靴磨き屋・体重測定屋・タイプを打つ代書屋・シミット売り・水売り・焼き栗売り・クルミ売りなどがいる。体重測定屋は、家庭に体重計が無くてこういうところでこどもの体重を量って記念にするのだろう。なかには少年が普通のヘルスメーターを持って街頭でやっているものもある。路上で働いている少年が沢山いる。レストランで食事をしていると靴磨きの少年が現れる。少年が去ると次に猫がやってきてお座りをしてご飯をねだる。店の人は彼らを追い出したりはしない。これもイスラムの喜捨の精神の表れなのだろうか、イスタンブールでは人がそこにいるように犬や猫も自然にそこにいるのだ。

 スルタナメット地区の絨毯売りには困る。しつこく話しかけ、中にはつきまとう人もいる。絨毯売りの場合、「コンニチハ」を無視して答えずにいると「アンニョンハセヨ」と声をかける。韓国からの観光客も多いのだ。絨毯売りだけでなく、一般の人や高校生も「こんにちは」と話しかけてくる。声をかけられた場合、良い人と悪い人の見分け方が難しい。絨毯売りでも安全情報をしっかり教えてくれる人がいた。トプカプ宮殿であったポリス・スクールの生徒の団体は僕たちに親しく話しかけてくれた。そのうちの少女が家内に「You are beautiful!」と言ったのは、家内はとてもうれしかったようです。

 一般にトルコの人はとても人なつこくて親切だ。その点、観光客に冷たく個人主義的なパリの人と対極にある。城壁のトプカプ門からエミノニュまでトラムに乗る。満員だったので入り口付近で立っている。途中の駅で奥の方でひとつ席が空いたようだ。するとそばにいた中年の男性が空いた席を指す。そしてそのおじさんの奥のおじさんが両手で後ろを押さえて道を空ける。さらに、その席は座っていないときはバネで上に上がってしまう席なのだが、隣の席のおばさんがあがらないように押さえてくれる。僕たちはとてもうれしくて三人に大きな声で「テッシェキュールエデリム!」。

 僕たちが行ったのはちょうどラマザン中でした。日没が近づくと、ブルーモスク前の広場に沢山の人が集まる。公園にござをひきレストランの中も人がいっぱいになる。食事の用意を整えて日没を告げるアッザーンをまつのだ。やがてミナレットから日没を告げる声が鳴り響くと、一斉に食事が始まる。レストランのスタッフも、仕事を中断して一緒に食べている。こういう事からイスラムの団結心も生まれるのだろう。すごーい光景を目撃した。またカドキョイからエミノニュへ向かうフェリーで、前に席に座っていたおじいさんの前の若い人が袋からパンを出して食べ出した。するとおじいさんはすぐに席を立って僕の隣の席に座った。おじいさんには数珠が握られていた。なるほど今はラマザンなのだ。アジアサイドのウスキュダルからハレムへ海外沿いに気持ちの良い遊歩道が続く。家内がペットボトルの水を口に含むと少女がそっと「ラマザン・・・」とささやく。TVもラマザン中なので、天気予報のようにトルコ各地の日没時間が何度も放送される。夕方は各テレビが宗教指導者の説教など、ラマザン関係の放送になる。テレビのCMでもラマザンという言葉が何度も聞かれる。でも新市街やアジア側のカドキョイの若者の様子は全く違う。ラマザンなど彼らには関係ないようだ。

 イスラムの寺院(モスク)にはいると、そこにはキリスト教や仏教に見られるような祭壇や彫像・絵画はない。ただメッカの方向を示すミフラーブと説教台があるだけだ。偶像崇拝が禁じられているからだが、我々から見ると、何か祈りの対象を絞り込めないような少し不安定な気持ちになる。でも偶像を乗り越えると、そこにはよりピュアで内省的な祈りがあるのかもしれない。キリスト教や仏教では御灯明があるのだがモスクではそれもないようだ。

 帰りのトルコ航空のチェックインで、受付は若めの女性。いきなりビジネス席はないのでエコノミーに変えると高圧的に出る。僕たちは贅沢な旅をするためでなく、深夜帰宅して翌朝すぐに仕事をするため少しでも寝たかったから取った席だった。ご一緒になった同じくらいの年齢の「やまださん」「なかじまさん」と2時間にわたる大格闘、とくに「やまださん」の語学力と態度がすばらしく、思わずそのりりしい姿に感激しました。でも僕たちには離陸時間というデッドラインがあり折れるしかなくエコノミーで帰国することになりました。外国はどこでもそうですが、「ごめんなさい」と言わない。これはいけません。最初にごめんなさいと言って頭を下げられるとこちらも頭に来ないのですが?差額を払うからそれでいいだろう・・、と言う言い方でよけい頭に来る。ビジネスに乗れなかったのはダブルブッキングではなく機種の変更のためだそうです。チェックインカウンターの女性はエンジントラブルと言っていましたが、どうやらそうではなく飛行機ががらがらだったので、小型機に急遽変更したようです。これも日本人は絶対しません。無理でも大型機を飛ばすでしょう。「約束を守る」と言うことが大切だと言うことを日本人はよく知っているからです。
(後日談:機種の変更は、同日のイスタンブール発ヨハネスブルグ行きの飛行機の登録が間違っており、関空行きの機材をそちらに使い我々の乗る飛行機が急遽変更されたことによるそうです。当然差額の返金をしてもらいましたが、トルコ航空からはお詫びの品として素敵なお皿をいただきました。)

 帰国後一週間ぐらい僕の頭は変だった。たった三泊四日の滞在なのに、脳は相当の衝撃を受けたようで、おそらく日本での毎日の暮らしで使う脳とは全く違う部分の脳を使った感じだった。それだけトルコが僕に与えた衝撃は強かったのだ。



旅行ガイド以外に以下の本は是非お読みになってからお出かけになると興味がいっそう湧くと思います。
・ 世界の都市の物語 イスタンブール 陳舜臣 文春文庫
・ コンスタンチノープルの陥落 塩野七生 新潮社 (ビザンチンの最後)
・ 落日のボスフォラス 澁澤幸子 集英社 (オスマン帝国の最後)
・ とんぼの本 イスタンブール歴史散歩 澁澤幸子ほか 新潮社
・ 中央公論社 世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラブ
・ 創元社 世界の歴史 4巻 ビザンツ帝国とイスラーム文化

イスタンブールの地図については、特に旧市街や新市街のガラタ地区は細い路地が入り組んでいます。一番役に立ったのは
・出版:JALブランドコミュニケーションズ JALシティガイドマップのうち G00032 「イスタンブール」 (420円)でした。



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