僕たちの忠臣蔵

家内が忠臣蔵のファンなのです。こどもの時からお芝居に連れて行ってもらったみたいです。
赤穂城

ここに戻ってこれなかった浅野内匠頭。茶店があります。
吉良邸跡

小さくなった吉良邸跡、首洗いの井戸(?)が生々しい。このあたりには相撲部屋が多い。
泉岳寺の四十七士墓地



 討ち入りにはひとり抜けたけど、その方のお墓も一緒にあった。みんなに線香をあげました。
浅野内匠頭終焉の地

新橋にある。内匠頭の辞世の句「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」は有名。石碑はなぜか車道に向いていて歩行者は見逃してしまう。
江戸城 松の廊下


左は皇居東御苑にある江戸城の天守閣跡、東京の都心に広大な自然が残っている。左が松の廊下の跡地、石碑が建っている。
 南部坂、雪の別れ

「南部坂雪の別れ」は忠臣蔵の泣かせ所の名場面です。
亡君・浅野内匠頭の仇討ちの決心をした大石内蔵助は、主君の妻の瑶泉院の元に最後の別れに行きます。
しかし、浅野屋敷には敵のスパイが潜んでるのに気が付いた内蔵助は、わざと「仇討ちはしない」と告げて去ります。
内蔵助を「忘恩の徒」と罵った瑶泉院は、その後、主君の仏壇に残された手紙を見て、誤解を知ります。
すぐに、内蔵助の後を追い、南部坂を下る内蔵助の背中を涙ながらに見送ります。
別れに行ったのは、討ち入りの前日。南部坂には雪が舞っていたのでしょう。

写真左上は氷川神社(浅野土佐守邸跡)、右上は南部坂

 
六義園


 栄華を誇った柳沢吉保の邸宅跡、六義園の入り口の向かいにはアンパンマンでおなじみのフレーベル館があります。
このすぐ近くに日本医師会があります。何度も通ったところです。
赤穂藩浅野家上屋敷跡

築地の聖路加にあります。
義士の寺、吉祥寺

足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪などを添えて吉祥寺に碑を建てた。江戸や赤穂よりも早く、1739年(元文4年)建立されたそうです。大阪の上町台地にあります。
天野屋利兵衛の碑

赤穂浪士に討ち入りの武器を揃えるなど、四十七士の強力なサポーターとして知られる。石碑は大阪本町の近く、東横堀川の左岸にある。「義侠 天野屋利兵衛之碑」と記されている。
小倉屋

江戸時代から三百年以上続く酒屋さん。早稲田にある。延宝4年(1678)初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694)堀部安兵衛が高田馬場に駆けつける際、この店に立ち寄り景気づけに升酒を飲んだと伝えられています。 
浄 祐 寺
 
矢頭右衛門七(矢頭教兼)の父「矢頭長助」のお墓がある。大阪市北区堂島3丁目にあります。

右衛門七は四十七士の中では大石主税についで若年です。父である矢頭長助は赤穂藩取り潰しの財務整理の後(赤穂藩の勘定方であった)、わずか十四両余り(現在のお金で200万足らずだそうです)を退職金としていただき、この地に移り住みました。清廉潔白な方だったのですね。残念ながら討ち入り前に病死し、極貧の生活だったので遺骸はほとんど捨てておかれたそうですが、のちの人たちが浄祐寺に埋葬してお墓を建てたそうです(向かって右)。父に代わって若い右衛門七が本懐をとげ泉岳寺に埋葬されますが、のちの人々がそれでは寂しいだろうと父の隣に息子のお墓(向かって左)を建ててあげたそうです。右衛門七は長身で美少年であったといわれ、討ち入り後に義士の中に男装の美女がいたという噂が流れました。1月8日生まれで訪問時86歳の笑顔の素敵なご住職に詳しくお話を伺いました。ありがとうございました。 

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